第14話
アニキメーカーよ今一度



 「カードゲームを作ろう」
 ある日、僕は大学の部室でこう宣言した。
 当時僕は文芸部の部長をしていた。前任から突然勧誘を受けていきなり部長になったのだが、当時はまだ文芸部は発足したばかりで主だった活動もなかったことから部としては認められておらず同好会同然だった。 だが僕と当時の総本部長が同じ寮の友人だったため、これ幸いと裏から画策し正式な部として昇格させてもらったのだ。そのため僕が実質的な初代部長であった。
 さて文芸部とは何をするサークルかというと、一般的には小説を書いたり(本来の意味での)同人誌を出したりといった活動をしているところになる。 だが、僕たちはというと連日カードゲームばかりしているという活動状態であった。ゲーム部、と呼んでもおよそ差し支えがなかっただろう。むしろカードゲーム部以外の何物でもなかった。
 しかし遊んでばかりもいられない。実績を残さねば再び文芸部は同好会に格下げになってしまうのだ。
 そこで冒頭の宣言となったわけである。
 もとより僕はゲームを作ったり考えたり遊ばせたりするのが好きだったので、カードゲーム好きが高じてカードゲームそのものを作りたくなってしまうのは必然だった。文芸部の活動ではないのでは、という意見はあえて聞かなかったことにする。

 さてカードゲームというと今ではマジック:ザ・ギャザリングに代表される、トレーディングカードゲームのことを指すようだ。
 各種カードがランダムに封入されているカードのパックを買ってきて、自分で好みのカードを入れてデッキと呼ばれるカードセットを作って友人などと対戦するというのがこのトレーディングカードゲームの趣旨であるわけだが、 1993年くらいにマジック:ザ・ギャザリングが日本に上陸してカードゲーム界を席巻するまでは、カードゲームといえばモンスターメーカーなどが主流だった。
 主流、といってもマニアな店に行かないと入手出来ない、内容もちょっとマニアックといった塩梅で知っている人は一握り、むしろ知っている人はみな「同志」といっても過言ではなかった。

 当時のそれらカードゲームはどういった物だったのかを簡単に説明してみよう。まずカードだがこれはトランプや花札などと同じで、 販売されている一つのセット(大体100枚組くらいが多かった)がそれぞれ異なるカードで100枚なら100枚全部を使ってプレイするスタイルだ。
 トランプと異なるのは、昨今のトレーディングカードゲームと同じように、カードの内容がかなり具体的だということだ。 「モンスターカード:ゴブリン、攻撃力5」やら「エクスカリバー:攻撃力+10」やら「罠カード:相手のモンスターを1体倒せる」といった具合でトランプのようにいろいろな遊び方が出来るわけではなく、 ある決まったルールに沿って2〜5人程度でプレイするというものだった。

 そして、そんなカードゲームに興じていた僕たちが作ろうとしたゲームもまた、同じようなものだった。
 作るとなったらまずは何を題材にしようかとなるわけだが、当時僕が「プリンセスメーカー」という、今のギャルゲーや育成ゲームの礎となったゲームが登場し大ハマリしていたこと、 そして「超兄貴」という怪しいシューティングゲームにこれまた大ハマリしていた影響で「各種アニキが体を鍛えてボディビル選手権でポイントを稼いでいく」という、得体の知れない内容になった。
 ゲームのタイトルはズバリ、「アニキメーカー」である。タイトルを聞いただけでキナ臭い香りがプンプン漂ってきそうなシロモノだ。

 具体的なゲームの内容を紹介しよう。
 プレイヤーはジムのトレーナーというような位置づけで、それぞれ2名ずつのボディービルダーカードを受け持つことになる。 このボディービルダーがまた怪しさ炸裂で、ちょびひげの男爵がいたり尼さんがいたりとおよそボディービルダーとはほど遠いラインナップだった。その場のノリだけで作られたキャラクターだから仕方がない。
 受け持ちのキャラクターが決まれば順番にカードを引いていくことになる。カードにはプロテインなどボディービルダーにくっつけることでパラメータがアップする各種ブーストカードや、 逆に下剤や画鋲など相手のカードにくっつけることでパラメータを下げたり一時的にボディービルダーを行動停止にするような妨害カード、そして各種コンテストカードがあった。
 コンテストカードを引くとその場で直ちにボディービルコンテストが開催されることになる。コンテストはそれぞれ審査基準が違っていたり、女性カード専用だったりと多種多様で、優勝すると指定されたポイントを獲得出来る。 ゲームとしては、必ずカードの山札の一番下に置かれる最終コンテスト(一番ポイントが高い)が終了したときの総獲得ポイントが多いトレーナーが総合優勝、というスタイルだった。
 事前に紙を切って簡易カードを作り何度もテストプレイをしたおかげでゲームバランスなどは割と良かったように思う。今でも、市販カードゲームと比べてもそれほど遜色のない出来だったと思っている。

 しかし、このアニキメーカーの不幸はこれから始まるのだった…。

*

 ここまで作ったからには実際に量産して販売してみたいと考えた僕たちは、色々な印刷所をあたってみた。
 今ではインターネットなどという便利なものがあるが当時はなかったから電話帳などで調べて飛び込みでアポを取ってみたりした。
 しかしまだカードゲームがマイナーだった時代の話だ。製本やポスターなら請け負ってくれるところは数多くあったが特殊なプレスが必要なカードゲームを作ってくれるという印刷所はなかなか見つからなかった。 どうにか請け負ってくれるという一軒の印刷所を見つけたのは一ヶ月以上たった頃だったように覚えている。
 しかし今度は版下製作という新たな難問が僕たちの前に立ちはだかった。

 版下というのは平たく言ってしまえば印刷する原本だ。本や漫画でいう原稿にあたるわけだが、カードゲームの場合はプレスする形状までちゃんと作らねばならない。 今では漫画にしろ何にしろ便利なソフトが多数あるから簡単に版下は作れるが、当時はそんな物はない(正確にはあったが、個人が手を出すには金銭面などハードルが高すぎた)ので、自作することになる。
 時々漫画のネタなどで、漫画家の後ろで編集の人がハサミをちょきちょきやりながら原稿が上がるのを待っているシーンが出てきたりするのだがご存じだろうか。
 あれは編集の人が上がった原稿の中のセリフに対し、活字を印刷した物を切り貼りしているのだ。まさに手作業で版下を作っているシーンなのだが、それと同じことを僕たちもやった。 印刷所の中で、透明のセルのような物に文字やイラストを切り貼りして、カードゲームの原稿となる版下を作ったのだった。 前述のように今では簡単に版下が作れるから、印刷所の現場で働いている人でもこんな作業をやったことがない人が多いと聞く。そういう意味では貴重な経験だったと言えよう。

 さて、版下が出来上がった我らがアニキメーカーだが、次はどれだけ印刷するかという話になる。
 印刷業界では当たり前の話なのだけど、例えば100部印刷するのと200部印刷するのとでは実は印刷代はほとんど変わらないのだ。これは印刷代の内訳のほとんどが版下製造費だったりプレスの金型製造費だったり手数料などだからだ。 紙代やインク代というのはほんのわずかに過ぎないから、100部作ろうが200部作ろうが印刷所がかかる費用はあまり変わらないのだ。
 僕たちはこのアニキメーカーを出来るだけお手頃な値段で販売したいと思っていた。市販のカードゲームが大体3000円のところ出来れば1000円に抑えたいと考えていたので、 単価が500円前後になる数量を見積もってもらったところ400個作ればいいことが分かった。
 400個分の費用は学生の身分にはかなりの打撃、いや致命的でもあったが情熱がそれを上回った。それに誰も口には出さなかったが売れれば倍以上になって返ってくるのだ、ちょっとした財テクだ、という皮算用もあった。

 そうこうしているうちに、印刷所から仕上がったとの一報がもたらされた。
 しかし嬉々として印刷所に向かった僕たちを待ち受けていたのは、未整理の、いやある意味整理されたカードの山であった。
 アニキメーカーは100枚一組のカードゲームである。印刷所にあったのは400枚ずつまとめられた100個のカードの山だったのだ。つまりここから1枚ずつ取っていって100枚組にするという作業が待っていたのだ。
 段ボール3箱分のカードの山を自宅に持ち帰った僕たちは、そこから徹夜でカードを組み直していった。 さらにサイコロを3個使うゲームでもあったので、事前に業者に頼んで購入しておいた1200個のサイコロを3個ずつに分けるという作業も同時に行った。
 分けられたカードとサイコロ、それにプリンターで打ち出したマニュアルをセットにして袋詰めし、400セットのアニキメーカーが出来上がったのは、2日後の明け方であった…。

 しかし真の困難はこの後である。
 実際にアニキメーカーを売るのにどうしたらいいかと悩み、思い当たったのが同人誌即売会だった。そう、いわゆる広義でのコミケだ。具体的にはインテックス大阪というところで行われているコミックシティというイベントだった。
 しかし当時コミケなど見たことも聞いたこともなかった僕たちはリサーチが決定的に不足していた。400個持っていけば全部売れて、帰りはミナミの繁華街で豪勢な打ち上げが出来るものと信じて疑わなかったのである。
 当日、総重量50kg以上にもなるカードゲームの山を持って行った僕たちは一様に、場違いなところに来たと痛感するハメになった。
 「ゲーム」というカテゴリがあったのでそこで参加することにしたのだが、それはゲームを売っている場所ではなくゲームを題材にした同人誌を出している場所だったのだ。カードゲームなど売っているのはどこを見渡しても僕たち以外にはいなかった。
 結局、数時間かけて売れたのはわずか8個だけだった。帰り道も当然総重量50kg超だ。真夏の太陽が僕たちを殺さんとせんばかりに照りつける中、鉛のように重い両足を引きずりながら帰路についた。 ミナミの繁華街なんてどうでもよかった。とにかく一刻も早く家に帰りたかったのだった。

 その後僕たちは小さなイベントを見つけては少しずつアニキメーカーを売っていくことにした。さすがに反省して20個程度しか持って行かなかったが、最終的に僕が大学を卒業する頃には累計50個程度は売れていたように思う。
 そして費用の倍返しという皮算用はもろくも崩れ去り、文芸部の部室には350個ものアニキメーカーがうず高く積み上げられることになったのだった。

*

*

 先日、僕はアニキメーカープロジェクトの一員だった後輩にその後の顛末を聞いてみた。
 文芸部は僕たちが卒業し幾度かの代替わりをした今、本来の活動である執筆や会報の発行などを行う普通のサークルになった。 当時5人しかいなかったメンバーもかなり増え、お荷物でしかなかった存在から総本部から一目置かれるほどの大きな存在になったらしい。
 僕たちが部室に残してきたカードゲームや当時の文芸部の象徴でもあった、壁に掛けられた等身大ナコルルの特大ポスターなどは全て処分され、かつての面影はもう一切残っていないという。
 そして、僕たちの情熱の結晶とも言うべき、あのうず高く積み上げられていたアニキメーカーも全て処分されたということだった。

 ゲーム業界に就職し、コミケにはあれ以来参加したことこそ無いもののそのスジの情報にも詳しくなり、さらにインターネットや印刷技術といった環境も発達した今、 もし「アニキメーカーよ今一度」とばかりにもう一度作ろうと思えば恐らく当時からするとかなり出来のいい、ある程度売ることも可能な物を蘇らせられるに違いない。

 けれども当時の、知識も何もないけどもただがむしゃらだった情熱や思いといったようなものはきっと同じようには蘇らないんだろうな、と思うのだった。

つづく



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