第12話
ラジアメはメーテル



 「斉藤洋美のラジオはアメリカン」という番組を知っているだろうか?
 当時僕は中学校に上がったばかりだった。小さい頃からテレビ番組、特にバラエティーの類をあまり見せてもらえなかった僕はメディア関係に非常にオクテになり、 また話題に付いていけないので一層見なくなるというスパイラルの渦中にいた。(基本的には今現在もその傾向はあるのだが)
 そんな僕だったが、ある時友人から「ラジオが面白い」という話を聞かされた。深夜のAM放送には面白い物がたくさんあって良く聴いているというのだ。
 僕は色めきだった。ラジオ!それは甘美な響きを持っていたように思う。テレビ番組と違って、そこはまだ人の手によって荒らされていない肥沃な大地とも言うべき存在だと直感した。要するにマイナーだということだ。
 当時からマイナー好き(平たく言うとひねくれ者)だった僕は早速、家にあった小型の携帯ラジオを手に取り周波数のダイヤルを合わせた。
 いくつかの番組は割と面白く、いくつかはつまらなかった。
 こんなもんなのかな、と思いつつダイヤルを回しある種の失望を感じ始めていた僕だったが、そのときまさに偶然、1つの番組が耳に飛び込んできた。
 それが「斉藤洋美のラジオはアメリカン」だったのだ。通称ラジアメ、である。

 番組の内容を説明すると、斉藤洋美というパーソナリティと、鶴間政行という構成作家の二人が地味ーにトークをしていくという物である。
 結局今日に至るまで他のラジオ番組をほとんど聴かなかったため比較は出来ないのだが、後日友人に録音したテープを聴かせたところ 「バックの音楽もほとんど無いし、間も多いし、構成作家の声もぼそぼそしてるし、すっげー地味」と言われたから恐らく相当に地味なんだろうと思う。
 しかしこの番組に、僕は強く心惹かれた。その最大の理由は、提供がナムコだったからだ。知っての通り当時からバリバリのゲーマーだった僕は、そしてその中でも一番のひいきがナムコだった当時、 ナムコが提供しているというだけでこの番組はある種神聖な物と言えた。啓示的な物であった。また、初めて聞いたのがたまたま、かつて大橋照子という別のパーソナリティの番組だったのが斉藤洋美にバトンタッチした第1回目だった、というのもあった。

 番組内にときおり流されるゲームミュージック、コーナーの切り替わり時にキャッチ代わりに入る新作CM。たとえ地味で暗くとも毎週エアチェックをし、録音も欠かさなかった。

*

 そんなある日、番組で全国のリスナーに会うというコンセプトの全国行脚ツアーが行われることになった。
 地元浜松にもやってくる、という情報を聞きつけ仲のよい友人数人と遠路自転車を漕ぎまくって会場に行った。当時から「確かにちょっと地味な番組だな」と思っていたし、 実際番組の存在を知っている友人もほとんどいなかったため大して人は来ないだろうとタカをくくっていたのだが、そこにはかなりの数のリスナーが集まっていた。 油断していたから僕たちがやってきたときにはもう立ち見に近い状態でほとんど声しか聞こえない有様だった。会場が狭かったというのもある。
 それでも何とか持参した色紙にサインを書いてもらったりと、それなりに満足だった。

 当時すでに僕は高校生になっていた。
 高校生になると学区ではなく学力によって学校が変わる。(東京あたりだと小学校の頃からお受験があるらしいが、当時地元では一部の付属校を除けばほぼ全部学区制だった)そのため学校が家から遠いのは別段珍しいことではない。 また人間というのは年を追うごとに視野が広くなって知識や情報も多数蓄積されるようになるから、大抵の人は高校入学と同時に趣味や興味が劇的に多方向に変化すると思う。
 そして僕もそうだった。楽しいことや辛いこと、数々の新しい物が己の身にシャワーのように降り注いだ。 そしてそのシャワーを浴びているうち、僕はいつの間にかラジアメのことは忘れてしまっていた。ラジアメより楽しいものをたくさん見つけてしまったのだった。
 その後、大学に進学し大阪に拠点が移ると完全にラジアメは過去の物となった。そもそもラジオ自体聞かなくなっていた。
 ラジアメは少年の日の、ちょっぴり暗いけども眩しかったような青臭かったような、そんな遠い思い出として記憶の片隅に収まることになったのだった。

*

 ところがつい先日、ふとラジアメのことを思い出した。
 あれから10年以上の月日が流れていた。インターネットという情報収集の場が幅をきかせている時代になっていた。
 何気ない気持ちで検索をしてみると、数多くのサイトがヒットした。暗かったけど、ラジアメは確実に人気があったのだ。
 そしてその中にこんなサイトがあることを知ってしまった。時代は、変わっていた。

 サンプルが試聴出来たので聴いてみた。懐かしい声、雰囲気。当時と面影は全く変わっていなかった。
 しかし僕は心のどこか隅っこの方で「聴かない方が良かった」と思った。「サイトの存在を知らない方が良かった」とも思った。 決して内容が良くなかったというわけではない。言うならば「いつでも聴けてしまう保険」を手に入れてしまったことに幾ばくかの後悔をしたというところだろうか。
 この意見には賛否両論あると思うが、僕はもう手に入らない物にこそ儚さや尊さのような物があると思っている。有名人のサインが、その有名人が亡くなった後になって値上がりするようなものだ。 もう手に入らないから貴重であり、もはや減る一方だから儚いのだ。
 僕は幼少の頃から切ないことが大好きなセツナリストだった。例をあげてみると、小学校の頃大好きで毎週のように見ていたアニメに「銀河鉄道999」があった。 999はアンドロメダに行くという大目的があったが、しかし毎回どこかの星に立ち寄って何らかのエピソードがあるという構成だったから幼少の僕にとってはある意味、 999は永遠にアンドロメダには到達せず僕はずっとずっと毎週999を見続けていられるに違いない、という奇妙な安心感を持っていた。
 しかし最終回はやってきた。
 最終回の切ない内容もさることながら、僕の胸の内は「ああ、もう見られないんだ…」という喪失感でいっぱいになって、しばらく呆然としていたことを覚えている。 当時はビデオデッキも無いような時代で、実質これが最後の見納めであった。鉄郎もメーテルも永遠のキャラクターとして昇華された、はずであった。
 ところがしばらくして999は時間を変えて再放送される。
 本来なら喜ぶところなのだろうけども、当時の僕は何だか納得のいかない気持ちでいっぱいだった。あの最終回の喪失感は何だったのか、幼少の頃なのでそこまでは考えていなかっただろうけども、本能的に「違う」と思っていたのだ。

 …これと同じ気持ちが、ラジアメのサンプルを聴いているときにふつふつと蘇ってきたのだった。今まで遠い記憶として暖めてきた思い出が、一気に現実に引き戻されたという感覚だ。
 自分でも世間と比べてちょっと極端な感情であることは分かっているから、これに文句を言うつもりはない。だから、代わりに「知らない方が良かった」と思ったのだった。

 思うに、僕にとってラジアメはメーテルだったのかも知れない。(ラジアメに限ったことではないが)
 銀河鉄道999の有名な文句に「さらば鉄郎、さらばメーテル、さらば青春の日よ」というのがある。過ぎ去った青春の日は、思い返すことはあっても蘇るべきではないんだろう。
 思い出が美化されるのは、きっと、二度と蘇らないからだ。

*

*

#ラジアメの話をすると決まって思い出すのが、くだんの全国行脚ツアーに参加した際に同級生の女の子が会場にいたことだ。
 彼女はまじめで勉強も出来て、ゲームのゲの字も知らないような人だった。少なくとも僕はそう思っていた。
 彼女に淡い恋心を抱いていた僕はとても驚いた。ここに来るとは到底思えない彼女に、どうしてここにいるのか尋ねたかった。が、結局出来ずじまいだった。
 彼女はその後医大に進み、今ではどこでどうしているか知る由もない。
 僕は今でも時々、あのときどうしてあそこにいたのか聞いてみたい衝動に駆られることがある。
 けれどもこれだけの年月が経った今となっては、これこそ、「知らない方がいい」。

つづく



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