第6話
いつか、また会おう



 最近全国で地震が頻発している。
 いや、日本列島自体が地震島みたいなものだから、むしろ地震が起こらない方がおかしいわけでそういう意味では当たり前の話なのだが、そうではなくていわゆる「巨大地震」が頻発しているな、と思ったのだ。 特に地震が比較的発生しないと言われてきた関西方面が活発だ。
私は年中、いつ起こるとも知れない巨大地震、すなわち東海地震に恐れおののく生活を強いられる静岡出身なので地震に対しては感覚がマヒしているというか、地震が起こってもあまり騒ぐことなく「ふうん、大したこと無いな」 などと思うようになっていたのだけど、しかしある時を境に大きく変わってしまった。地震が発生する度に、一人の友人のことを思い出すようになったのだ。

 そのある時とは、1995年1月17日。阪神大震災のあった、あの日である。

*

*

 中学2年の終わりの春休み、私はオーストラリアでホームステイをした。もちろん一人で行けるわけはなくて、旅行代理店が組んだホームステイセットだ。日本全国から7、8人の希望者が集まってみんなでオーストラリアに行って、 泊まる家こそバラバラだけど現地の学校にみんなで通うという、そういう旅である。
 さてそのメンバーの中、私は最年少だった。他の面々はみな高校生だ。これを読んでいるみなさんも同意してくれると思うのだが、中学と高校とではほんの1、2年の差とはいえ大きな隔たりがあって、会話に全然付いていけないことが多い。 ましてみんな出身がまちまちだから共通の話題も少ない。
「これは、弱ったな」
 そう途方に暮れた私であったが、そのとき一人の少年が現れたのだった。尼崎出身のフジモト君だ。ただ一人私と同い年の彼は私の格好の話し相手となった。 色々話をしてみると、彼は絵を描くのが好きでゆくゆくは漫画家とかアニメーターになりたいと語った。ゲームも嗜むということもあってすっかり意気投合した私と彼はずっと話しっぱなしだった。もはや何のためのホームステイなんだか分からないくらいだ。 どのくらい話していたかというと、彼は兵庫の人間なのでバリバリの関西弁の使い手なのだが、ものの2日程度ですっかり私も関西弁が移ってしまった、というくらいだ。
 しかしホームステイの日程は短い。帰国となった日、私とフジモト君は「いつか、また会おう」と言って別れた。

 それから間もなくして、彼から陽気な手紙が届いた。どうやら元気にやっているようだ。
私も返事の手紙を書き、そして文通が始まった。彼は毎回アニメキャラのイラストが描いてあった。私は文章しか書けないから得体の知れない小話なんかを書き連ねた。文通は、高校の3年まで続いた。 1回だけだけど夏休みにフジモト君が私の実家に遊びに来たこともあった。

 そして、大学受験の時がやってきた。別に彼に触発されたわけではないんだろうけど、私は大阪の大学ばっかり受けて、進学することとなった。大阪から尼崎なんてのは目鼻の先で、遊びに行こうと思えばすぐに行ける距離である。 ある日私は、あらかじめ聞いておいた電話番号を回してみた。久しぶりに聞く、フジモト君の声だ。
「今度どっか遊びに行こうぜ〜」
「せやなあ。…あ、でも実は今バイトが忙しいんや」
 …じっくり話を聞いてみると、色んな事が分かった。
 フジモト君の家は元々複雑な事情があって、尼崎の中だけとはいえ頻繁に引っ越しをしていた。実は高校の時にはすでにフジモト君ではなく別の名字だったりしている。 高校卒業後、フジモト君は親元を離れ尼崎だったか三宮だったか、その辺で一人暮らしをすることにしたらしい。大学には進学せず、かねてからの希望通りアニメ系の専門学校に行くことにしたようだ。 しかし専門学校は四六時中授業があるわけではないので、空いた時間は生活費を捻り出すためにバイトをしている…。
 そういう状況らしかった。実家に手紙を出しても色々あって受け取れないと思うから、直接新しい住所に送ってくれ、と言っていた。
「そうか〜。でも夢に向かってるんだな」
「まあなあ。けどアレやね、専門学校はアカンわ。オタクばっかりやもん。まあ俺もオタクやし人のこと言えへんけどな。けど、上手く言えんけど、あいつら他に行くとこがなくて仕方なくここに来てるいう感じがしてな。 俺はお前らとは違うんだ!…って言いたいわ」
「ははは。でもお前は違うんだろ。頑張れよ。俺もどうにかして作家かゲームの企画屋になるからさ」
「ああ、俺は走っとるで!」


 それから私も色々忙しくなってきた。カナダにホームステイに行ったり、帰ってきたらすぐに就職活動が始まったり。今の会社に内定が出たら、アルバイトですぐに来てくれという話になって、大学の授業をサボって長野で生活することになってしまった。 しかし卒業するためには後期試験は受けねばならないので、試験を受けるためだけに大阪に戻り、さあ今日から試験だ、という日にあの地震が起こったのだった。
 大変な騒ぎだった。大阪近郊の実家から直接通っている人もたくさんいたので、もはや試験にならなかった。中には教授が亡くなってしまって、試験そのものが消滅した講義もあったくらいだ。 身の回りのことだけで手一杯だった私だったが、しかし正社員になって安定して仕事をするようになってから、ある日、ふとフジモト君のことを思い出した。
 手紙の束を漁り、控えてあった電話番号を回すと、その電話はもうつながらなかった。
 確か、尼崎は大変な惨事だったと聞く。一瞬脳裏にイヤな予感がかすめたが、私は考え直した。専門学校は2年で終わるから、私が卒業する前に彼はもう卒業なり就職なりして尼崎を脱出していたかも知れない。 他県に引っ越しをしたので電話がつながらないのかも知れない。
 しかし、いずれにしても私は彼と連絡を取る術を失ったのだった――

*

 日本のどこかで地震があるたび、私は彼の姿を思い出す。今頃どこで何をしているのだろう。遠い空の下、今でも走り続けているのだろうか。

…走り続けているよな!
俺も、まだ走っているよ!!

つづく



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